直視。書き殴り。
物の少ない部屋、整頓された書類、きれいに畳まれた服、本棚に収まらなくなった本、絡まったイヤホン、文字文字文字……
吐きそうなほど詰まりに詰まったここから出来るだけ遠くへ逃げたくて、夜の公園へ。
こんなに感情的で衝動的なのに、ちゃんとパソコンを持って行って、ちゃんと仕事をする。
明かりに集まる虫を見て思う。
君たちも連れて行ってあげようか?
瞼を切り取られて目を閉じることが出来なくなった人間はどんなに逃げても見ることから逃げられない。
ようやく書き終えた台本を送った。
何でこんな話を書く?と言われて答えられない。
この作品を誰が楽しめるか、遠回しにお前の作品は独りよがりだと言われている。
本当にそうだと思う。
私は自分の中にあるものしか書けない。だからダメなんだと思う。
話聞いてるうちに分からなくなってくる。これ何回目だっけ。気づけば通話は切れてる。
大事なものが傷つくと悲しい。自分が傷つけてしまうともっと悲しい。私が書いた君たちは、傷つけられて帰ってくる。私が書いたせいで。お前たちは存在しなくて良かったみたいなんだ。
白い絵の具でしか絵を描けなくなった画家。
子供を助けて右手を失ったチェリスト。
歌おうとすると声が出なくなる小鳥。
悲しみに強く羽を閉じたきり、2度と開けなくなった孔雀。
夜が怖くて光ることが出来ないホタル。
描かれる登場人物は皆抜け落ちたパズルのピースを探し続けている。本当は取り戻せないものを飲み込んで。
部屋に帰れば君たちを見なくちゃいけない。
3羽の鳥。幸せの灰色の鳥。
1羽は天井の近くを飛び回り、1羽は籠の中で動かない。1羽は籠から突き出た木の枝に止まって、籠を開けようと努めている。
それ以上でもそれ以下でもない。物語はそれだけ。鳥たちは毎日同じことを繰り返し、籠は開かない。私はそれを見ている。夜は危ない。籠が開きそうになる。
だから私は部屋の鍵を閉めて外へ。
朝になったら部屋に入って目を閉じて次の物語を書く。今度こそ誰も傷つかないようにしよう。ね。
不条理劇というリアルを隠したリアリズム
不条理劇をご存知?
全てが曖昧で、物語の筋が真っ直ぐ進まない。夢なのか現実なのか定かでない。
時間も、因果関係も、変化もセオリーなど完全無視。
「何も起こらない」劇と語られることが多い。
永遠に続く物語のためにならない会話。現実世界に溢れる時間、物語、会話は実際無意味なものばかりだ。
日本の不条理劇といえば別役実。
『マッチ売りの少女』
ええ、あのマッチ売りとは勿論違います。
ある初老の夫婦の夜のお茶会へ、市役所から女が訪ねてくる。
夫婦は快くお茶に迎え入れる。
女は子供のころ、マッチを売っていたのだと自分の過去を語りだす。
女はマッチを売って、そのマッチで自分のスカートの中を覗かせる商売をしていた。
そしてそれを教えたのは、あなたたち夫婦で、あなたたちは私の両親だと言う。
夫婦は、自分たちには娘が一人いたが電車に轢かれて死んでしまったと食い違う二方。
妻の方は、自分の娘だと受け入れようとするが、女は弟を連れてくる。
夫婦には息子などいなかった。
女と弟は、自分たちが子供の頃、両親とともに過ごした日のことを語るが、どれも当てはまらず夫婦は困惑する。
夫婦ははじめ、二人を追い返そうとするが、姉の子供達が寒さに震えるのを可哀想に思い、泊めてあげることにする。
疲れから眠る女の隣で、弟が夫婦からもらったビスケットを食べる。
ところが女は突然、弟がビスケットを獲ったと激怒する。
夫婦は止めようとするが、女は弟に暴力をふるってまで二人に謝らせようとし続け、父に「マッチをすらないで……」と言い残し動かなくなる。いつの間にか女の二人の子供達の寝息が聞こえなくなっている。
以下、感想。
全くの感想。
この物語の登場人物、まずは夫婦。彼らは「善良な保守派」で中流階級で幸せな日常を送る一般市民の象徴。
そして姉弟は、戦後の貧しく卑しく生きた過去の記憶の象徴なのではないかと思う。
「マッチ売り」の商売を知っていますか?
戦後間もない大阪の深夜、女が男に声をかけ、マッチ一本を十円で売り、そのマッチでスカートの中を覗かせるというものです。
その時代の飢えや悲惨さを身近に感じられますか?
マッチ売りの女の台詞は”平和”な世界で生きている一般市民の私たちの心に刺さります。
ビスケットを食べようとする弟に対して、
姉「誰でもお腹が空いているのです。でも、みんな我慢しているのです。」
妻「うちではちっともかまわないの」
この家ではちっとも構わないことなんです。
外で飢え、卑しく生きていくしかなかった子供達に対して、他人にビスケットを与える優しさがちっとも構わないことなんですって。
女が過去の卑しさの記憶ならば。寒い外でスカートをたくし上げて飢えをしのいできた記憶は、暖かい家で無償に与えられる優しさに対してどんな感情を抱くのでしょうか。
「お前の食べたビスケットは誰の分だったのです。お前のために今夜誰が飢えなくてはいけないのです。」
と弟に乱暴を働く姉を、
「あんなもの、いっぱいあるんです」
と男は止める。
この優しさは誰の責任でしょうか。
誰か一人のための優しさは、他の誰かを傷つけることになるかもしれないのです。この人たちの頭にそんな想像力はないのです。なぜならこの二人は「善良な保守派」であり、優しい人間だから。ではその優しさは一体誰のためのものなのでしょうか。
自分たちはあなたたち夫婦の子供だ、と言い張る姉弟を、夫婦は認めます。しかし実際そんなはずはないのです。そのことは夫婦自身が一番よくわかっているはずです。ではなぜ夫婦はそんなはずのない虚構を事実だと認めたのでしょうか。
おそらく、夫婦がとても善良で親切だから。
しかしその善良で親切なその行動は、一体誰のためのものでしょうか。姉弟のためというより、自分たちの平凡で穏やかな「何も起こらない」暮らしを守るためなのではないでしょうか。二人のかわいそうな子供達が自分達の子供だというのならば、夫婦にとっては最早それでいいのです。それは平凡で穏やかで何も起こっていないのとほぼ等しいのだから。
それはつまり、戦後に生まれた卑しい人々から目を背け、見ないふりをするか、または同情し親切にすることしかできない、責任を取ることを逃れた人々の行動なのではないでしょうか。
そしてこの姉弟は実際にそんな夫婦が、そんな夫婦たちばかりの社会が”生んだ”のに違いないのです。責任を取らない善良な市民たちが、卑しい子供を生み、その卑しさを教えたのです。
これは蛇足ですが、
別役作品に出てくる「姉」という存在はいつも自分の外側のすべての責任を取るキャラクターのように感じます。
マッチ売りの少女での姉は、平和を目指し何もかも忘れ、責任を逃れ、人に優しく、「善良」に生きようとしている人たちに対し、自分と過去の責任をもう一度思い出させるという役割を担っているのではないでしょうか。
私たちは忘れてはいけない。決して。
そんな深読みも深みを通り越して浅瀬にいるような気もするけれども。
不条理ってのは訳のわからないつまらない作品と取られがちですが、読み方次第ではなんとでもなる、つまり自分の一番身近なリアルに擦り合わせた作品として読むことが出来てしまうのです。
刺々しい何かに皮膚を抉られる感覚があり、なんとかその痛みを見ないようにしているのに、沸々と溜まっていく熱湯がさらにその皮膚を捲る。
そんな苦しみに耐えられなくなって不条理に助けを求める私もまた……
不条理というリアルすぎるこのリアリズム、耐えられますか?
おおきなふねになって、世界中の泥沼を覆うの。
重たいものを持っている自分は割と好き。
ずっと少し浮いていた自分の足が地面にぐっと埋まっていく感触がする。
とくにお米を持っているときはいいよね。自分がとても人間らしく、生きてるって感じがする。
そんなふうに、全ての重たいものをしあわせに持てたらいいのにな。
それからきちんと人の荷物も持ってあげられるくらい私もしっかりと重さを保たなくては。
最近の私はすこしばかり迷子だ。
道を間違えたり、踏み外したり、遠回りをするのはべつに良い。遠回りを楽しむことができれば、近道より価値がある。
だけど迷子になって、足が止まったり、後ろに下がってしまいたくなったり、こうなるといけない。
人の前に立つような人間が、こうではいけない。
自分を厳しく律していかなくては。
何がダメなのか、どうしていけばいいのか、自分の現状と課題を見直してみる。
私は”責任”がほんとうに得意じゃない。
どんな些細なことでも、責任と名のつくものはあまりにも重たい。
側から見れば大したことないことでも、どーんと重たく持ってしまう。
そしてどんどん地中に埋まっていく。
道はいつも泥沼で、常に歩いていないと腰まで浸かってひとりでは抜け出すことができなくなる。
そして、誰からも見捨てられてしまったら、私はひとり、埋まって、呼吸ができなくなって、そして死んでしまう。
でも、それもまた私の責任で、私は他人に対しても、自分に対しても、きちんと責任をとって生きていかなくてはならない。
そして大抵の場合、責任ってのは取り切ることができない。散々人に頼って、迷惑をかけて、自他共に苦しみの中でなんとか折り合いをつけるんだ。
重たいものを運んだあとは、清々しい達成感だけが残るわけではない。
全身の鈍い痛み、手に残るこの不安。私一人が感じているならまだしも、巻き込んだ人々の手にもまた痺れる痛みがあるのだろう。
それでも、
もうすぐ26になる人間が、責任から逃れていてはいけないとも思う。
同年代でどんどん人を巻き込んで成長していく人を見ていると、”自分はそうなれない”と、”でもこのままではいけない”という両極が、私を少しずつ引き裂いていく。
そして引き裂かれて、なかから新しい私が誕生するのです!
桃から生まれた桃太郎。
ふくから生まれたふく太郎!!
深夜ですね。目を瞑るべきでしょうね。
だけど、目を瞑った暗闇の先に、一体なにがあるっていうの?
幸福はいつも目を開けた先にある。
だから私はずっと目を開け続けていたい、片時も目を閉じたりなんかしたくない。
目を閉じている間に、大切な何かを失ってしまうことだってあるのだから。
ひとりで目を開け続けているってのは、本当にしんどいよね。だから私がずっと目を開けていよう。
誰かが目を覚ました時に、そばにいてあげたい。
そのためにはまず、私が目を開けていられるように、重たいものを持てるようにならなくちゃね。
世の中には、本当にうまくいかないときってのがあって、それが立て続けに起こることもあって、
それに立ち向かわなくちゃならないとき、どんなに歩き続けてても、腰まで浸かってしまうこともある。
もし、本当にこのまま埋まっていけるならそれでもいいと思ってしまうことだってある。
だけど私は責任を持って這い上がる。そして目を開ける。
それからいつか、もし誰かしら埋まってしまいたいと思ってるなら、それに気づくために、引っ張り上げる為に何回か埋まってみたんだって笑いながら言う。
自分いっぱいにいろんな経験を詰め込んで、その重さで君たちを引っ張りあげるよ。
どれだけ詰め込んでも4年後には全て手放してしまうけれど、今は詰め込みたいの。
そのうち、私の経験で大きなふねをつくるよ。
重たいものをたくさん積んでも沈まないような、頑丈な大きなふね。
たくさんの人数を乗せても沈まないような、大きな、大きな。
私は、きちんと先を見据えて、みんなを安全なところまで運んであげられるかしら。
操縦しながら星を見る余裕なんかあったら素敵だよね。
それから、みんなが、船に乗ってることに気づかなかったら尚良い。
自分の心で、自分の力で歩いてきたと思わせることができたら。
そういう人間のまま、いつかキラッと輝いて終われたらいい。
輝くツルツルの鏡だって表面には繊細なキズがたくさんある。その無数のキズの反射が一際光を放つ。
一瞬の輝きのために、荒いヤスリをかけて傷ついていこう。
私はいつかひとりでも重たいものを持てるようになる。絶対に大丈夫。
無色透明な声と言葉
透明なものを見たことがある?
私はない。透明はみえないから。
今やっている稽古場での話。
私はER看護師の役で、助けられなかった命や遺された人の悲しみに直面し、
日々少しずつ折れていく心を奮い立たせて、明るく仕事に取り組む人物。
かなり重たい物語の中で唯一コメディの役回り。
ふと本音が漏れるシーンでも暗い言葉を使わず、常に前向きな役柄。
以下、そのシーンの詩。
ふと忘れていた微笑みを 思い出して無理やり
笑ってみるのよ 束の間の夜明けのひととき
いつも背中を押してくれるのはこの張り詰めた心
ナイチンゲールの長い夜はまだ終わらない
回る運命の車輪はあなたを乗せて行く
まだ見ぬ未来へとどこまでも
通り過ぎた命の儚い願いよ
誰かに届け 愛と共に
自分を奮い立たせる繊細な心と、周りを巻き込んで前に進もうとする強さを感じる詩と音楽。
最近の稽古で作曲家から、
「君は歌に感情を乗せすぎない方が良い。君の声は色がないのが良さ。あまりに芝居を込めるとその良さが消えてしまう。」
と言われた。
その方は度々私の声を評価してくれるのだけど、いつも「感情のならない声」「飄々としていて温度がない」「無色な音質」とか絶妙なことを言ってくる。
褒めのニュアンスで言われるが、私に使いこなせて初めて良さになるような。
人の声のことはよく理解できるが、自分の声だけはよく分からないものね。
と同時に、
静かな文章を書くよねと言われたことがある。
私が文章を書くときは、
乱雑に、
吐くように書いている。
創作はほぼ吐き気。
ずっと昔からそうだった。
文字を書くときも絵を描くときも、全身が震えて苦しくて、熱に浮かされるように、胃の中のものが上がってくるような気持ちの悪さの中で書いている。
また出産にも似ているのかもしれない。
書いた話が没になると、登場人物たちの命の軽さに震える。私の身体の底で大事に育てた物語が、外に出た瞬間に簡単に殺されてしまうのよ。
その重さと向き合って、次のはなしを生まなくてはならないのよ。
ふと忘れていた微笑みを思い出して、無理やり
これを歌うときに感情表現が出過ぎて、無意識に喉をぐぅうと締めて歌ってしまっている。
そういう乱雑な感情を出すなと言われているのかもしれない。
ただ、悪くないなと思っている。
無色のガラスにベタっとアクリル絵の具を乗せるような、そんな乱雑で暴力的な感情表現。
きっと私の演じる看護師は私ほど弱くない。
それが今演じるにあたって生まれている些細で大きな苦しみ。
でも同じくらい強くいたいもの。
酷く混ざったアクリルを飲み込んで、無色透明でいようじゃないの。
「あなたのために」の烏滸がましさとそれでも善意を尽くす尊さと。
さてとまた忙しいときってのは夜中に爛々と目が冴えて、文章を書きたくなるのは何故かしら。
創作していると、創作から漏れた言葉がたくさんその辺りに散らばって、創作の邪魔になるからかき集めてポイっとどこかに捨ててしまわなくてはならない。
だったら書こうじゃない。
最近、各方面で人と接することが非常に多い。大人も子どもも。私は他人から影響を受けやすいから、なるべく人を選びたいところだけど、そうもいかないよね。
私自身、誰かの影響力の一端だと思うと、私だけは、良い影響力でいたいと謎のプライドが働く。
この人は大丈夫だと安心できる存在でいてあげたい。
最近、不登校や家庭内で問題のある子どもたちをみることがが多くなった。
学校や家庭に安息を見出せないなら、せめて1人でも、ここだけでも気を抜ける場所になってほしいと思った。
中には明らかに役や芝居に当たってるなと思う子もいる。プロの役者なら怒鳴られるところだが、それで気が済むなら役で吐き出したって良い。
だけど子どもだけじゃないんだ。
孤独な大人の方が、安易に人を傷つけてしまう。
もしかしたらわたしも誰かを傷つけていやしないかと、何も出来なくなってしまいそうだ。
次回作はそういうテーマで書いてみている。
挫折と嫉妬。その対象がするりと目前から離れて行ったとき、自分が手を引っ張ってもらっていたことに気づく。全速力で走らされるから、雨が叩きつけると思っていた。でも1人で立っていたって雨は降る。静かなのは雨宿りする時だけ。でもいつまでも雨宿りしているわけにはいかないなら、手を引いて前を走ってくれる人がいた方がだいぶマシだった。
「あなたが嫌いで嫌いでたまらない」と面と向かって言う台詞を書いたら、役者が困っていた。
本当に嫌いにならないと言えない台詞だ。難しくないわけがないよね。
「自分が我慢してるとき、相手も同じくらい我慢してると思えたらいいな。自分が傷ついてるとき、相手も同じくらい傷ついてると思えたらいいよね。
でも自分をちゃんと見てあげてない人は、他人を傷つけてみないと自分の傷に気づけないのかもしれないよね。」
「どれだけ沢山考えても見えるのはきれいな花だから、花を見て想像したことを好き勝手言えるんだよね。
せっかく一瞬だけ咲くことができるなら、良い顔したいじゃない。だから花は泣かない。
それだけのこと。
決して何も考えずに、踏み躙られる悔しさも知らぬまま咲いてるわけじゃないと思うんだ。」
稽古していくうちに台詞も変わっていくと思うよ。
本当に殺したいほど憎いのに、眩しくてたまらなくて、好きになってしまう。
以前出演した舞台の話をひとつしようかな。
演出助手をしていて、当日急に舞台に上がることになった作品。
昔、守ることのできなかった生徒のことをずっと引きずりながら教師を続けている役。
その生徒は2度死んだ。1度目は言葉の暴力、2度目は交通事故。1度目に生徒を手放したまま2度と会うことができなくなってしまった教師はずっとそのことを許せずにいる。
そしてまだ教師を続けているが、当時と同じく言葉の暴力で傷ついている生徒たちをどうやって守るべきか分からない。
繊細で壊れそうなものに触れるのは本当に怖い。怖くてたまらない。
その時の詩。
誰かと手を繋いで 歩いていけるのか
何度も思い悩み 傷つき苦しんでも
やり直せる ダイアローグが続く限り
誰のものでもない あなただけの自分
何度でも問いかけて ようやく掴むもの
探し続けてる ダイアローグのはじまり
ダイアローグは対話。
芝居は近づくか離れるか留まるかの3つしかないと思っているが、対話はまさにその"近づく"ための手段だと思う。
近すぎると傷つけるかもしれない。それでも対話を試みたい。
そしてこの教師、やってることは非常に偽善的だと思われるのだけれど、教師であることは、1人の人間であることをかなり捻じ曲げていると思う。
自分が教える立場になって初めて味わった感情がある。
「あなたのために」存在したい。
人の手をとって引っ張り上げたい。離さずに掴んでいてあげたいという気持ち。
あなたたちがしあわせならそれでいいと、相手に思える心がある。だから君たちがダメになりかけたら全部を投げ出しても助けてあげる。それがいま指導してる子達への想いだし、その責務の重さに震える。
「あなたのために」の烏滸がましさと尊さに一生向き合っていかなきゃならないか。無償の愛って本当にあると思いますか?
雑文失礼しました。さぁ、今日も誰かのためにを押し付けて生きようかな。
向上心と
雑文
正直このまま日記にしまい込もうかと思ったけれど、来年、絶対に前に進みたいから投稿。
2022年
とにかく色々なことが玉砕しまくった一年。
今年は自分の1番やりたいことに牙を剥かれ、本当にキツかった。
前に進んでないとは言わない。この一年、知識量は莫大に増えたし、自分は頑張ったと認められる。ただ代償は大きい。
長い時間をかけたことも、ほんの小さなことに対しても、つまらない疑心を抱いた。
誰にも知られたくないなと思ったし、誰でもいいから知って欲しいとも思った。
同時期に自分がハイセンシティブだと知り、自分の感情的な意見を話すことが更に難しくなった。一言発するたびに周りに疎まれているような気もした。
自分の知っている事実だけを話し、あとは当たり障りのない世間話しかしたくなくなった。
決定的なことがあったわけではない。
今までずっとあった違和感が徐々に本気で落としにかかってきたのだ。
長期旅行に出かける初日に鍵を閉めたかどうか確認し忘れ、その間中、大丈夫と言い聞かせながら消えない不安を思い出し続けるような、とても些細でとても嫌な感じ。
なんか違う、やりたくない
あなたらしくない、見たことある
こんなのなら誰でも書ける
かけられる意見はどれも尤もで、全部先に私自身がかけている言葉だし、
技術が圧倒的に足りていないのだ。それを自信や時間のせいに出来るわけがない。
だからこそ勉強を怠らないようにするし、そのためのお金も時間も惜しまないようにしようと思っている。
ただどうしても、
書いても書いても気づくと消えているただの白紙と、命をかけて書いたって一緒に伝えたいと思ってくれる人なんていないじゃないか、ただのめんどうな仕事のひとつに消化されるだけじゃないか、そんなのを書いて何の意味がある?
どうしても、
鍵をかけ忘れている気がして仕方ない。
とにかくたくさんの些細なわだかまりで
私は簡単にダメになった。
でも、信じて待ってくれている人がいるなら裏切り者にはなりたくない。
伝えたいことがうまく言葉に出来ないからこそ、書き手になりたいと思った。
それを本気で一緒に伝えたいと思ってくれる人と演劇が出来ると思っていた。
それを1人で一から作るような素敵な人間では、まだなかった。
来年の課題は本当に自分にとって必要なことを見極めること。
たくさんの誘惑や羨望が周りにあるけれど、惑わされずに正直になること。
時間に対する意識は自分だけを信じること。
あと3年で死ぬと思ったら最初に何を手放すか。
誰にも拾われない作品に、命をかけられるか。
伝わらない言葉をずっと胸の奥で燻らせているけれど、
燻ってる間は死ぬわけにはいかない。
『絢爛とか爛漫とか』を通して芝居について考えたこと、伝えたいこと。
振り返りをしていたらとても追いつけなくなってきたので、ここに記したいと思います。
バックステージを見せるのは好きじゃないけど、伝えたいことがあるので書きます。
たぶん最後の自主公演にして最大規模、にしては人数は少なく、期間も短く、ちょっと無謀なことも幾つかやろうとしていて、本番が近づくにつれ、頭を抱えることも多くなっていきました。
でも壁は乗り越えられました。
S16の仲間たち、過去公演で関わった後輩たち、a*DaSHのみなさん、当日観劇に来てくださった同期や先輩方にも、仕込みやバラシの手伝いをしていただき、本当に頭が上がりません。
自主公演をするときには毎回感じるのですが、今回は特に、多くの方に支えられていることを痛感しました。
本当にありがとうございます。
私もまた、周りに対して協力的でありたい、こうやって助け合いの輪が広がっていけば良いな、と心から思います。
役者として集中できる環境では無かったのも事実ですが、それでも最後まで全員が作品と役に没頭していた、この環境が心地良かったです。
素敵な役者たちと芝居が出来たことを嬉しく思います。
そして助演出のみきちゃんがいてくれる安心感。信頼出来るって素晴らしいことだと再確認しました。
と、ちょっと熱弁したいことがあって。
後輩の皆さん、どんどん芝居を打ってください。
芝居をする上で、意見が合わない、性格が気に入らない、そういうのは全部ぶつけてください。
役が役とぶつかるように、役者は役者とぶつからなくてはなりません。
同じ熱量でぶつかれば壊れることはありません。途中で放棄せず、最後まで話し合ってください。
信頼を築いてください。信頼がなければ良い芝居は生まれません。
信頼は積んでいくものです。どんどん芝居を打ってください。
助けてくれる人はいます。学生という特権は学生のうちしか使えません。
外で芝居を打つのは一苦労です。
劇中で、私達のやった役は皆、
何かを追い求め、上手くいかず、見ないフリをしたり、
分からないフリをしたり、向き合って打ちのめされたりしながらも、
根底のその何かに執着し続けていました。
執着できるうちは、執着し続けるべきだと、この作品から学びました。
まるで役の4人が生き写ったかのように、稽古後に4人でこれからの人生について語ったことがあります。
そのときに私は芝居に執着があるとはっきり自覚しました。
私はそのことに誇りを持ちたい。
舞台に立った瞬間から私達は逃げ道を絶たれます。
それがどれほど心地良いことか。
現実世界でも逃げないことに没頭し続けたいものです。
あえて文章をまとめる前に投稿します。
伝われ。