モチーフノート

頭の中の絡まりを解いて文章にするだけのブログ

不条理劇というリアルを隠したリアリズム

 

不条理劇をご存知?

全てが曖昧で、物語の筋が真っ直ぐ進まない。夢なのか現実なのか定かでない。

時間も、因果関係も、変化もセオリーなど完全無視。

「何も起こらない」劇と語られることが多い。

永遠に続く物語のためにならない会話。現実世界に溢れる時間、物語、会話は実際無意味なものばかりだ。

 

日本の不条理劇といえば別役実

 

『マッチ売りの少女』

ええ、あのマッチ売りとは勿論違います。

 

ある初老の夫婦の夜のお茶会へ、市役所から女が訪ねてくる。

夫婦は快くお茶に迎え入れる。

女は子供のころ、マッチを売っていたのだと自分の過去を語りだす。

女はマッチを売って、そのマッチで自分のスカートの中を覗かせる商売をしていた。

そしてそれを教えたのは、あなたたち夫婦で、あなたたちは私の両親だと言う。

夫婦は、自分たちには娘が一人いたが電車に轢かれて死んでしまったと食い違う二方。

妻の方は、自分の娘だと受け入れようとするが、女は弟を連れてくる。

夫婦には息子などいなかった。

女と弟は、自分たちが子供の頃、両親とともに過ごした日のことを語るが、どれも当てはまらず夫婦は困惑する。

夫婦ははじめ、二人を追い返そうとするが、姉の子供達が寒さに震えるのを可哀想に思い、泊めてあげることにする。

疲れから眠る女の隣で、弟が夫婦からもらったビスケットを食べる。

ところが女は突然、弟がビスケットを獲ったと激怒する。

夫婦は止めようとするが、女は弟に暴力をふるってまで二人に謝らせようとし続け、父に「マッチをすらないで……」と言い残し動かなくなる。いつの間にか女の二人の子供達の寝息が聞こえなくなっている。

 

 

以下、感想。

全くの感想。

 

この物語の登場人物、まずは夫婦。彼らは「善良な保守派」で中流階級で幸せな日常を送る一般市民の象徴。

そして姉弟は、戦後の貧しく卑しく生きた過去の記憶の象徴なのではないかと思う。

 

「マッチ売り」の商売を知っていますか?

 

開高健原作の『日本三文オペラ』という作品でも出てきますが、

戦後間もない大阪の深夜、女が男に声をかけ、マッチ一本を十円で売り、そのマッチでスカートの中を覗かせるというものです。

 

その時代の飢えや悲惨さを身近に感じられますか?

 

 

 

マッチ売りの女の台詞は”平和”な世界で生きている一般市民の私たちの心に刺さります。

ビスケットを食べようとする弟に対して、

姉「誰でもお腹が空いているのです。でも、みんな我慢しているのです。」

妻「うちではちっともかまわないの」

 

この家ではちっとも構わないことなんです。

外で飢え、卑しく生きていくしかなかった子供達に対して、他人にビスケットを与える優しさがちっとも構わないことなんですって。

女が過去の卑しさの記憶ならば。寒い外でスカートをたくし上げて飢えをしのいできた記憶は、暖かい家で無償に与えられる優しさに対してどんな感情を抱くのでしょうか。

 

「お前の食べたビスケットは誰の分だったのです。お前のために今夜誰が飢えなくてはいけないのです。」

と弟に乱暴を働く姉を、

「あんなもの、いっぱいあるんです」

と男は止める。

 

この優しさは誰の責任でしょうか。

誰か一人のための優しさは、他の誰かを傷つけることになるかもしれないのです。この人たちの頭にそんな想像力はないのです。なぜならこの二人は「善良な保守派」であり、優しい人間だから。ではその優しさは一体誰のためのものなのでしょうか。

 

自分たちはあなたたち夫婦の子供だ、と言い張る姉弟を、夫婦は認めます。しかし実際そんなはずはないのです。そのことは夫婦自身が一番よくわかっているはずです。ではなぜ夫婦はそんなはずのない虚構を事実だと認めたのでしょうか。

 

おそらく、夫婦がとても善良で親切だから。

 

しかしその善良で親切なその行動は、一体誰のためのものでしょうか。姉弟のためというより、自分たちの平凡で穏やかな「何も起こらない」暮らしを守るためなのではないでしょうか。二人のかわいそうな子供達が自分達の子供だというのならば、夫婦にとっては最早それでいいのです。それは平凡で穏やかで何も起こっていないのとほぼ等しいのだから。

それはつまり、戦後に生まれた卑しい人々から目を背け、見ないふりをするか、または同情し親切にすることしかできない、責任を取ることを逃れた人々の行動なのではないでしょうか。

そしてこの姉弟は実際にそんな夫婦が、そんな夫婦たちばかりの社会が”生んだ”のに違いないのです。責任を取らない善良な市民たちが、卑しい子供を生み、その卑しさを教えたのです。

 

これは蛇足ですが、

別役作品に出てくる「姉」という存在はいつも自分の外側のすべての責任を取るキャラクターのように感じます。

マッチ売りの少女での姉は、平和を目指し何もかも忘れ、責任を逃れ、人に優しく、「善良」に生きようとしている人たちに対し、自分と過去の責任をもう一度思い出させるという役割を担っているのではないでしょうか。

 

私たちは忘れてはいけない。決して。

そんな深読みも深みを通り越して浅瀬にいるような気もするけれども。

不条理ってのは訳のわからないつまらない作品と取られがちですが、読み方次第ではなんとでもなる、つまり自分の一番身近なリアルに擦り合わせた作品として読むことが出来てしまうのです。

 

刺々しい何かに皮膚を抉られる感覚があり、なんとかその痛みを見ないようにしているのに、沸々と溜まっていく熱湯がさらにその皮膚を捲る。

そんな苦しみに耐えられなくなって不条理に助けを求める私もまた……

 

不条理というリアルすぎるこのリアリズム、耐えられますか?